soraの日記

統合失調症を抱える患者の備忘録

誕生日にこだわる理由

いくつになっても誕生日こだわる理由

 それは肯定された気持ちになるからです。
 生まれてきたことを。
 今まで生きたことを。
 全部、肯定されているような気分になるからです。

もし、これを読んでいる人が親ならば。

 もしくは親になろうとしている方ならば。
 あるいは将来的に親になりたい方ならば。
 覚えていて欲しいことがあります。


 どんなに疲れていた時であっても。
 どんなにストレスをためていた時であっても。
 絶対に子どもに向かって言わないで欲しい一言があるのです。

 お前なんて生まれなければ良かったのに。



 子どもが未就学児であっても理解できます。
 存在の全否定です。
 しかも血を分けた、実の親からの最大の精神的な虐待です。
 間違いなく、その子どもの認知は歪むでしょう。
 トラウマになるでしょう。


 この問題は根深く、いくつ歳を重ねても忘れることのできないものです。
 だからこそ、私は親からではなく、代償行為として、他から誕生日の祝いをねだるのです。
 それは形に残るものだったり、一生ものの想い出だったりするのかもしれません。
 みな気を使って祝ってくれます。
 ですが、私が欲しいのたった一言です。

 お誕生日、おめでとう。

 これだけです。
 欲しいのは、本当にこれだけなのです。
 生まれてきたことを祝ってくれる人がいる。
 それが救いなのです。
 優しい人たちは、当たり前に、誕生日を迎えた日に口頭で、コメントで、メールで、手紙で、祝ってくれます。
 でも、私にとっては重みが違います。
 幼い私が全否定されたように。
 大人になった私は全肯定せれるのです。


 立派なケーキはいりません。
 美味しいお料理もいりません。
 お洒落な場所に連れて行ってくれなくてもかまいません。
 欲しいと思っていた物をプレゼントしてくれなくてもかまいません。
 たった一言。
 誕生した日に、お祝いの言葉が欲しいのです。
 それは『生まれてきて良かった』と思えるからです。


 どれだけ死にたいような日々が続いたとしても。
 どれだけ生きているのが苦痛な日が続いても。
 365日あれば当然のように巡ってくるような、ありふれた一日であっても。


 生きてきて良かった、と思えるのです。


 だから、私にとって誕生日は特別な日なのです。