soraの日記

統合失調症を抱える患者の備忘録

私の「臓器提供意思表示カード」には家族署名がない

私の「臓器提供意思表示カード」には家族署名がない

 私が「臓器提供意思表示カード」を自分の意思で財布の中に入れて持ち歩くようになったのは、平成11年6月10日です。
 当時、脳死問題が世間的にニュースになり、あちらこちらのコンビニで当然のように置かれるようになった時代です。
 私は私の意思として、「臓器提供意思表示カード」を手にしました。
 きちんとニュースを見て、脳死とはどんなものか理解した上で、脳死判定が出た段階で、すべての臓器の提供をすることに決めたのです。
 もちろん、心臓が停止した状態でも、提供できる臓器があるのならば、かまわないと思いました。
 だから、本人署名を自筆で入れました。
 消えないように油性のボールペンで。


 このブログを読んでいる方なら、ご存じのように、私は『統合失調症』であり、年単位で通院をして、未だに2週間に1度は精神科に通い、主治医の先生と話をして、薬を処方されています。
 等級こそ低いものの手帳を持ち、自立支援も受けています。
 精神安定剤を飲み続けても、日常生活を送れないほど、酷い精神状態になることもあります。
 当然、断薬などできるはずもなく献血ができない体なのです。


 欠損なく産んでもらえたのですから、もし私が死んだら、臓器を提供したいと思っています。
 それで、誰かの命が救えたり、誰かが健康的に生活ができるようになったら、素晴らしいと思っているからです。
 ちゃんと生まれてきて、今まで生きてきて、最期まで誰かの役に立てるのなら、後悔のない人生だと思っているからです。


 ですが、未だに私の「臓器提供意思表示カード」には家族署名はありません。
 もちろん、「臓器提供意思表示カード」を持った時に、署名を両親に頼みました。
 特に母親が反対したのです。
 心肺停止状態になっても、臓器は提供できない、と。


 たとえ歪な家庭環境であろうと、両親は私を愛してくれているのだと思います。
 今で言うなら『機能不全家庭』の中で、私は育ちました。
 性的虐待以外のすべての虐待を受けました。精神的な虐待も肉体的な虐待もネグレクトも受けました。
 アルコール依存症であり、ギャンブル依存症であった父に育てられました。


 一番初めに生まれた子どもとして『いい子』であることを求められました。
 それこそ、保育園に通っていたころから。
 小学生に上がるころには、テストの点数を褒めてもらうことは一度もありませんでした。
 通信簿で良い成績を修めても、褒めてもらえませんでした。
 苦手教科である体育であっても平均をとっていても、満点でないことを注意されたのです。
 テストで80点以下の点を取った日には、理解力が足りていないと言われました。
 習ったことを覚えていないと復習させられました。
 漢字が書けなかったら十回、それでも足りないなら百回。
 テストが100点満点になるまで、何度でも、書き取りや小テストをさせられました。
 塾にも公文式にも通っていませんでした。
 当時、北辰テストがあり、詰込み授業が当たり前でした。
 一学年上で習う範囲を繰り下がりで、勉強させられていたのです。


 私という存在は、すでに異質であり、当然のごとくいじめにあいました。
 小学校から高校時代まで一環として、いじめを受け続けました。
 今考えれば当たり前なのですが、塾に通いもせずに、優秀な成績を修めて、校則からはみ出さない模範的な優等生だったわけですから。
 先生の受けが良かったのですから、妬みの対象にもなるでしょう。
 クラスメイトの前で愚痴を言ったことはありませんでした。


 そして、母親の教育方針として、他人を陥れるようなことを口にすべきではない、と教えられたのです。
 困った人がいれば助け、優しく接するように、と。
 シングルマザーの家庭の子や、心身障碍者のいる家庭で育った子や、病気を患っていてなかなか登校できない子にも親切にすることを求められたのです。
 それが当たり前だと思っていたので、私はそういった子たちも仲良くしようと努力しました。
 もちろん、そういった子たちは、すでに重度のストレスを抱えていました。
 他人を試すようなことをする、疑心暗鬼な子も少なくありませんでした。
 私は、その子たちからも妬まれ、いじめられました。
 手ひどい裏切りをされることもありました。
 いじめられている子を庇い、いじめの標的になることもありました。


 中学を卒業する前。
 進路指導の際に、両親から言われたのは「私立高校を通わせるだけの学費はない」ということでした。
 高校受験が当たり前の時代です。
 滑り止めの私立の願書代すら無駄だと言われたのです。
 県内の公立一本に絞りました。
 いじめから逃れたかったのと、今の学力と内申点で絶対に落ちない、という理由で底辺高を選択しました。
 電車で通わなければならないほどの遠方の学校でした。


 そして、全日制の共学の公立校に進学することができました。
 授業で椅子に座っているだけでも。
 宿題をとして出された課題を提出するだけでも。
 優秀な生徒として扱われました。


 図書室は静かな避難場所でした。
 もちろん通学時間が長いので、本を好きなだけ借りれるのは魅力的でした。
 私の家庭では教科書以外の本を買い与えてくれるほど、裕福ではなかったのですから。
 図書室が開けば、本を返却して、本を借りました。
 休み時間には読み、昼休みには返却して、帰り道用に本を借りました。
 司書教諭の先生も優しく、哲学や心理学や宗教や古典文学といった本やライトノベルや漫画も入荷してくれました。
 図書室の常連になるような先輩や同級生にも、可愛がってもらえました。
 底辺高でわざわざ本を借りに来るように常連の生徒です。
 読書が好き、なら、本を買えばいいだけです。
 大なり小なり、異質な存在だったわけです。


 そして『いい子』であるために、勉強に励みました。
 内申点を上げるために、いじめにあっていたとしても、学校には通い続けました。
 皆勤賞をとるために、毎日、学校に通ったのです。
 母の希望通り、教職の資格がとれる四年制大学を第一志望にしました。
 そのために公立の高校に入学したのですから。
 それこそ小学校に上がったころから、ずっと言われていたのです。
 国語の成績が優秀だから、将来は国語の先生になりなさい、と。
 推薦を勝ち取るだけの内申点が必要でした。
 国語系の成績は、偏差値だけなら早稲田大学も余裕で突破できる成績でした。
 三年間、学年一位を譲ったことはありませんでした。
 叩きこまれた教育というものは素晴らしく、小テストであっても、90点以上をおさめていました。
 高校の期末テストであっても満点をとることもありました。
 小学生時代から、読書感想文で受賞するのも珍しくなかったです。
 どうすれば先生から受けがいいのか、理解していたからです。


 唯一の道楽に三年生という受験に重要な時期に『美術』の単位を選びました。 
 おそらく、最後の自らが描く絵だとわかっていたからです。
 実際、油彩ができる最後のチャンスでした。
 学校から提供される画材を惜しみなく使うことができ、好きなだけ絵を描いていられました。


 苦手教科ももちろんありました。
 ですが予備校に通うお金なんてない家庭です。
 推薦が落ちた時に、あるいは大学に通うことになって、常識として身につけていなければならない最低限の理解力がなければなりません。
 同情心のあふれる先生を選び、中学時代からつまづいてところから、放課後の空き教室や教科ごとの準備室や職員室で丁寧に教えてもらいました。
 底辺高からの進学です。
 授業だけではカバーできない範囲も多かったです。
 親切な先生たちは、テストの点が伸びる度に、理解力が深まる度に、褒めてくれました。
 たとえ初歩的なことにつまづいていても、質問を重ねれば、根気よく説明をくりかえしてくれました。
 わからないものをわからないままにしておくことはいけない。
 それを教えてくれたのです。
 おかげで私の学力は飛躍的に上がりました。
 苦手教科であっても、成績優秀者の常連になるほどの成績になったのです。
 私が努力したから、だと先生たちは言ってくれました。
 初めて、私を他者が褒めてくれたのです。
 先生たちはお祝いに、絶対に私のお金では購入できないような副教材や大学に行っても通じるような本をプレゼントしてくれました。
 生まれて初めて、優しくしてもらえたのです。
 私は生徒という立場を使って、先生たちを利用しただけなのに。


 推薦入試を受けるために、小論文や面接の練習も進路指導の先生に頼みました。
 天声人語は基本でしたが、新聞なんてものを買う余裕のある家庭ではなかったのは先生も知っていたので、わざわざ用意をしてくれました。
 ニュースは多角的に知るために、複数の新聞に目を通すことを勧められました。
 面接の先生は、手の空いている先生に片っ端から依頼しました。
 どんな質問にも答えられるようにするためです。
 先生方の方も理解があり、快く引き受けてくれました。


 そして、私は奨学金を無事に受けることでき、四年制大学へ進学することができました。
 本当は家庭環境を考えると、中学卒業後に専門学校に行くことや就職することも考えていました。
 あるいは高校も、普通科ではなく、資格が取得できる場所でも良かったのです。
 卒業後、進学せずに、内申点の良さを利用して、安定した職業に就くことも考えていました。
 ですが、母親の望みは『国語の教師』でした。
 私は期待に裏切れずに、大学に入学して、教職に必要な単位数を計算して、講義を受けました。
 教職なんて狭き門です。
 時代は就職氷河期です。
 しかも潰しがきくような資格ではありません。
 ストレートで採用されるなんて一握りです。
 だいぶ時代は変遷してきて、一度は社会に出て、それなりに実績を積んでから、あるいは非常勤として勤めてから、採用される時代です。


 大学の図書館というのはたいそう魅力的でした。
 今まで読んだことのない本がたくさんありました。
 初等教育の基本は性善説。とは知っていましたが、すでに荀子韓非子にふれていたのです。
 心理学の本は当然読み漁っていましたし、それよりも高度な本が並んでいました。
 そして、国語科の必須科目で最終的にゼミナールに入る教授と出会いました。
 一年生の終わりに出した論文の評価はS。
 最高点をつけてもらいました。
 その教授の話は面白く、その道の第一人者だと知りました。
 きっとこの教授のゼミナールに入れば、私の抱えている孤独を解いてくれるのではないのか、そう思うほどの教授でした。
 優しく、親身になってくれる教授でした。
 飢餓を覚えるほど愛情に飢えていた私にとっては、素晴らしい人でした。


 大学での卒論は『日本人の死生観』でした。


 私は、ずっと死に場所を探していたのです。
 幼い頃からずっと、ずっと。
 楽園に憧れていたのです。


 知識としてリストカットアームカットをしても死ねないことはわかっていました。
 どれだけ睡眠薬を飲んでも、吐き気の方が強く、輸入でもしない限り死ねないのも知っていました。
 比較的入手しやすい農薬などの化合物は、どれもが苦しみが待っていて、速やかな死を運んでくれないことも知っていました。
 山で死んだり、電車に飛び込めば、遺族に高額なお金がかかることも知っていました。
 それに母親の期待を裏切れないほどの『いい子』だったのです。


 海を見たことがないのに、海に還りたかったのです。
 ようやく答えが出たんです。
 それは竜宮城であり、ニライカナイであり、補陀落信仰でした。
 きっとDNAに刻み込まれているとしか思えないほど執着でした。
 海から生まれたものは、海に還る。


 上代海上他界説なんて資料の少ない時代です。
 当然のことながら、各地の神話や民話、宗教にふれました。
 柳田國男に始めて、折口信夫も読みました。
 民俗学にほとんど近い学問でした。
 前例はほとんどありません。
 新鮮な切り口なんてありません。
 拾い上げくれた教授が第一人者だったのですから。


 そして、教授は私の論文を読むことなく儚くなりました。
 年齢的に考えれば、老衰です。
 葬式に参列したゼミナールの生徒だけではなく、かつての教え子や遺族も、悼みながらも、天国に行ったのだと信じて疑わないほど、穏やかな眠るような死でした。


 私の中で何かが崩れ落ちていきました。
 それが引き金だったのでしょう。
 私は、わかりやすい形で発病したのです。
 『統合失調症』に。
 幻覚が見えるのも、幻聴を聞くのも、睡眠障害を抱えるのも、当たり前になりました。
 理解者なんていませんでした。
 むしろ当時の精神科の先生との相性は最悪でした。
 今ほど画期的な薬がなかったのと、当時は『自律神経失調症』、『抑うつ』、などが病名だったのですから。
 むしろ詐病であることすら疑われました。


 その中で、私にとっての転機が現れました。
 20代の私が、いきなり大きな子どもの子育てをすることになったのです。
 友人と呼んでいいのかわかりませんが、親しい人物が未成年だというのに年の離れた妹を引き取ったのです。
 私以上に過酷な家庭環境に育った姉妹でした。
 しかも姉の方は知識として知っているはずなのに、自分が置かれている立場を理解していなかったのです。
 妹の方は完全に病んでいました。
 私は『代償行為』なのだろうと理解しながら、姉妹に手を伸ばしました。
 行政に掛け合い、前例のないことを無理やり押し通し、家庭的な環境を与えて、できることから褒めていきました。
 信頼関係を築くために、できることをしました。
 そして、二人は無事に社会に出て、手に職をつけて、働いています。
 もちろん修正不可能な個性は残りつつも、楽しそうに生きています。


 私にとって貴重な経験でした。
 こんなこともなければ、子育てなんて経験できなかったでしょうから。
 疑似的とはいえ、家族が手に入ったのです。
 私の病気は一生ものです。
 その欠落を埋めてくれるだけのパートナーが現れるとは思えません。
 年齢的にも出産は難しいでしょう。
 それに私が私の親にしたように、きちんと愛せるかわかりません。
 苦労はありました。
 一番、楽しい時代と呼ばれる青春期を血縁でもない相手のために時間も金銭も削ったのですから。
 それでも、無事に離れていった姉妹は、家族でした。
 彼女たちとたまに食事をする時、近況を聞くのは楽しいです。


 それでも罪悪感があるのは、両親に血の繋がった孫を抱かせることができないことでしょうか。
 一番、多感な時期に傍にいてくれなかったことを恨んだこともありました。
 ですが、薬を服用しながら、陽性反応から陰性反応に緩やかに転移していったこともあり、心も大人になりました。
 ああ、この人たちも苦労したのだ、と。
 ようやく親離れできたのです。
 遅すぎた反抗期が終わったのです、
 両親は不器用ながらも、愛してくれていたのだ、と理解できるほどには大人になりました。
 それが私の「臓器提供意思表示カード」には家族署名がない理由です。


 そして、また私も両親を愛しているのです。
 いまだに揃える程度にしか切らない髪。
 保育園時代に母が語ったんです。
 娘ができたら三つ編みにするのが夢だった、と。
 ピアスも開けていません。
 通常の出産が難しい病弱な母が帝王切開までして産んでくれた体です。
 その後もアレルギーを出し、散々、手を焼かせました。
 おやつはすべて手作りでした。
 ハンバーグやカレーやおかゆ、キャベツの煮びたしは、全部、母の味です。
 調味料も一緒です。
 父が好きだった母の作った甘い卵焼きも一緒です。
 あそこまで完璧な卵焼きはできませんが、私の作る卵焼きは砂糖が入ります。
 具だくさんの味噌汁も、夏の時期になると作る麦茶も一緒です。


 こんなことを書いた理由は、両親との連絡が取れなくなったためです。
 携帯電話も繋がらないし、手紙も受取人不明で帰ってきました。
 実家に帰って、確かめるのも怖いです。
 家の中で死んでいたのなら、速やかに連絡が来るとは思いますが、それがないとなると。
 もし、これが永訣だというのならば、ちゃんと産んでくれて、育ててくれてありがとうって伝えたかったです。
 確かに傍から見たら不幸な家庭かもしれません。
 それでも、私は愛されて、私は愛しているのです。


 一人暮らしを始める前に、母からの供養方法は聞いています。
 墓参りなんて大変だろうから、共有墓地に入れてほしい。
 そうすれば一人ぼっちじゃないし、毎日、住職さんがお経をあげてくれる、と。
 きっと父も、父方の墓に入るのは嫌でしょう。
 第一、父方の墓は教えてもらっていないのですから。


 私は最後まで『いい子』として、一番初めの子として喪主を務めたいと思います。
 期待を裏切ってしまった私の最期の親孝行です。