soraの日記

統合失調症を抱える患者の備忘録

爆弾低気圧と副鼻腔炎(蓄膿症)

ようやく起き上がれるようになりました

 前回、咽頭炎と診断が下りました。
 日中は何とかなっていたんですが、夜遅くに悪寒と共に骨が折れるんじゃないかというような錯覚を起こすような関節痛がしました。
 起き上がり、熱を測ったところで37.9度。
 その頃には咳が始まっていました。
 もしや、扁桃腺炎? と思い、残っていたカルボシステイン錠を飲みました。
 もともと扁桃腺が肥大していて、乾燥する季節にうっかりと38.5度代の熱を出すことは珍しいことではありませんでした。


 が、しかし。
 コロナが第五類になってしまったので、ここまで熱が高いと、発熱外来に電話予約しなければなりません。
 完全に声が枯れてしまっていた&緊急外来にでも飛びこまない限り治療が受けられないという状態です。


 39度以上に上がって、インフルエンザとか、それに付随する肺炎とかの診断が下れば緊急に入院という手段もありましたが、精神科で頓服で出されていたロキソニン錠を服用しました。
 寒暖差アレルギー用に処方されている薬ですが、解熱と沈痛の役割は果たしてくれる、と思いました。


 翌朝、体温計で熱を測ると36.6度代まで下がっていました。
 35度代が平熱な私にとっては、ぐったりするような体温ですが、動けなくもないので、最低限の家事をしました。


 メイアクトMS錠を飲み切っても、黄色痰が出続けるので、再度、耳鼻咽喉科へ。

副鼻腔炎という診断が下りました

 また、のど風邪を悪化させたわけですね。


 今度はカルボシステイン錠とレボフロキサシン錠が処方されました。
 さりげなく薬価がジェネリックなのに、上がりましたね。
 しかも耳鼻咽喉科の先生には、レボフロキサシン錠を飲み切っても、少しでも違和感があるなら、再度通院するように念を押しされました。
 毎年のように副鼻腔炎になっていれば、当たり前なのですが。


 レボフロキサシン錠は、精神科で出されている酸化マグネシウム剤と相性が良いはずもなく、薬剤師さんからは最低でも2時間以上は開けるように言われましたし、もらった説明書にも書いてありました。
 精神科で出されている昼・夕に飲む薬は食後なので、就寝直前に飲むことに。


 副鼻腔炎の『咳喘息』と『睡眠障害』がきっちり出ました。
 痰が切れるまで、咳が出続けるという。
 睡眠薬を飲んでいるのに、眠れないほど咳が出続けて、壁にもたれかかって座って目をつぶっても、うつぶせに寝ても、咳が止まるはずもなく。
 体力と気力の限界がきて、気絶するような寝落ちをしては、咳で起きるということをくりかえしていました。


 ここまで眠れないと当然のごとく精神は不安定になり、あいにくと悪天候です。
 自律神経が整うはずもありません。
 スマートウォッチからは、ストレス指数の高さと睡眠不足のレポートが届く始末です。


 かなりメンタルはボロボロでしたが、まあ何とか今日は3時間程度なら横になって眠れたので、こうして日記に顔を出しに来ました。
 咳は続き、若干食欲不振ですが、一時期に比べればマシってところでしょうか。
 あたたかいルイボスティーや麦茶&常温の香りを移していある水を飲みながら、脱水症状にならないように気をつけています。
 ということで、報告でした。

今日は通院日

2週間に一度の通院日です。

 薬は変わっていません。
 ただ埼玉県は台風並みの爆弾低気圧とか、土砂降りの雨が降ったり、いきなり夏日から平年並みになって、気温が10度以上下がりました。
 いわゆる自律神経の乱れですね。
 寒暖差アレルギーとか、気象病と呼ばれるそれです。
 私の場合、平熱が35度代なのに、朝っぱらから37度越えをしたり、頭痛がして、倦怠感を覚えて、食事すら半ば無理やり食べる、という状態になります。
 あるいは夜に寝付けずに、睡眠時間が仮眠をとっても4時間を切る、という。
 睡眠薬を飲んでもその調子です。
 なので、頓服のロキソニン錠が心細くなったので、処方をしてもらいました。
 現在も断続的に雨が降っているので、頭痛は続いていますね。

咽頭炎

 それだけなら、まだよくあることなのですが、昨夜から市販薬でマックス処方されているトラムキサンの薬を服用しても、のどに違和感を覚え、のど飴をなめても微妙。
 起き上がってみれば、声の痛みは増していて、完全に掠れていました。
 しかも舐めていたのど飴は指定医薬部外品の『ヴィックスメディカルティドドロップ』です。
 これを舐めていてもダメってことは、確実に病院に行った方が良いということです。


 病院をはしごする、というのは雨の日に避けたい状況ですが、耳鼻咽喉科に行ってきました。
 徒歩圏内にある内科に行くよりも的確に風邪などの諸症状を診断してくれる清潔感のある病院です。


 欠点があるとしたら、人気がありすぎて、朝一で予約をとらないと1時間程度の待ちがあることでしょうか。
 まあ、WEBで予約しても、秒殺で埋まりますが。
 精神科に通っていても、1時間ぐらいは待つのは普通なので気になりません。
 twitterとかで漫画を読んでいる途中で、名前を呼ばれるのが難点なだけです。
 「めちゃくちゃ、いいところなのに!」みたいな。
 完全に、こっちの都合です。


 診断名は『咽頭炎』でした。


 初期症状らしいですが、風邪の症状に近いのでしょうか?
 ウィルスや細菌性のものなので、咳をすると移るようです。
 いつ移されたんだろう。
 犯人に心当たりがないわけじゃないんですが……。
 あとで、愚痴っておこう。
 こっちはコロナやインフルの対策で、石鹸での手洗い&アルコール殺菌して、外出時にはマスクをしているのに。


 抗生剤のメイアクトMS錠がビオフェルミンR錠と共に処方されました。
 あいかわらず抱き合わせですね!


 というわけで、耳鼻咽喉科の先生と薬剤師さんには悪いですが、精神科で処方された酸化マグネシウム錠を抜きます。
 前回、抜いても、思いっきりトイレと友だちになったので。


 いつも通りにトラネキサム酸錠も処方されました。
 まだ咳きこむまで行っていないので、カルボシステイン錠は処方されませんでした。
 コロナが流行っていますからね、咳止めはどこもかしこも足りないみたいです。
 出してほしいところですが、もっと重症な人や高齢者や児童が優先ですからね。
 いくら体が弱いとはいえ、元気に病院へ通えるような病人に出していいものじゃないですね。


 本当に具合の悪い病人はひとりで病院へ行けませんから。
 付き添いorタクシーor救急車で救急搬送です。


 精神科の主治医の先生も、その状態なら酸化マグネシウム錠は飲まなくても大丈夫だと言ってくれましたし、水分とミネラル不足だけは気をつけるように言われました。
 脱水症状を起きないように、あたたかい麦茶やそば茶を飲みたいと思います。
 幸いティーバックなら山のようにある。
 特に麦茶は水出しでも、お湯だしでもいけるタイプです。
 しかも紙のにおいがしなくて、抽出時間が短いんです。


 あるいはフレーバーが好みのルイボスティーでもいいかもしれませんね。
 さすがに今日は寒いです。
 12月並らしいですよ。


 というわけで元気な病人からは以上です。

飲んでいる薬を調べてみた

何となく飲んでいる薬が気になって調べてみました

 検索した結果、目が点になりました。
 日本国内でも致死率1位の薬を年単位で、減薬もせずに飲んでいることに気がつきました。
 しかも、昼間と夕食後に飲む薬に堂々と副作用に


 催眠効果がある


 と、書かれていました。
 日中、眠気がしたり、耐えきれずに仮眠をするのは、これが原因か。
 と納得しました。


 この手の薬が内臓に悪いことは重々承知だったので、他は気にならなかったんですが。
 最近、処方が変わった就寝前の薬も検索した結果。


 基本的にジェネリックにしてもらっているとはいえ、後発商品がない薬も多いので、あまりの薬価に驚きました。
 就寝前に飲む薬だけでも、軽くランチが食べられそうです。


 しかも『気分を落ち着かせる薬』と書いてあったので、睡眠薬の一種かな? って軽く考えていたんですが、統合失調症双極性障害に効く、新薬みたいです。


 ドーパミンセロトニンをバランスよく、制御してくれるみたいです。


 就寝前の薬が変わってから、日中の活動時間が増えましたが。
 主治医の先生に、毎回、食事の回数とか、暮らしの変化とか細かく聞かれるわけですね。
 だいぶ様子見されているみたいです。


 おかげさまで14日以上の処方は出してもらえない現状ですが。
 徒歩圏内にあるので、良い運動にはなるとは思いますが、それでも待合室の空間は息が詰まりそうで苦手ですね。


 また、何かあったら書きこみにきます。
 服用する薬が変わったり、愚痴を零したい時になるは思いますが。

杞憂に終わったようです

 とりあえず、両親が健在なことがわかりました。

 それまでに、けっこう、私自身がたらい回しになり、あちらこちらに電話をかけることになりました。

 最終的には地元の警察の生活安全課の今回、窓口担当をしてくれた方に、洗いざらい説明をして、自力で実家に確認しに行くことは困難であることを伝えました。

 窓口担当の方が理解力のある方で助かりました。

 親族である私が直接、実家に安否確認に行くことが原則なのですが、一度の説明で非常に困難であることが理解していただけたようで、むしろ安心して任せてほしい、と言ってもらえました。

 両親も警察からの連絡ということで、すぐさま携帯電話に出たようです。

 折り返しの連絡で窓口担当をしてくれた方が、元気でやっていることと、郵便物が帰ってきた理由を教えてくれました。

 

 引っ越しをしていたのです。

 

 しかもだいぶ前から。

 その上、それを身内どころか親族にハガキの一通も出していなかったようです。

 だからこそ、母方の親族から私の携帯電話に固定電話が繋がらない、と電話がかかってきたのです。

 

 世間一般から外れている両親だと思っていましたが、どうやらさらに非常識になっていたようです。

 

 すでに両親は高齢であるので、いつ亡くなってもおかしくはないのです。

 あと十年あるでしょうか。

 その時は、また大騒ぎになると思います。

 個人的には体の自由がきかなくなる前に、高齢者施設に入居をしていただきたところですが、自由人である父には耐えられないと思いますし、病院嫌いですから、体が不自由になっても、入院するとは思えません。

 自宅で突然死、が怖いところです。

 私の脆弱な精神で耐えきれるか、どうかわかりません。

 

 すでに今回の一件で、ストレスが過剰にかかり、精神安定剤を飲んでも、誰から見てもわかるほど不安定になり、睡眠障害も大きくなり、睡眠薬を飲んでいるのに短時間しか眠れない、という状態でした。

 当然、睡眠時間が削られれば削られるほど、健康的な生活からは遠ざかりますし、精神的なストレスはたまるという悪循環です。

 

 あやうく陰性反応から、幻覚や幻聴が戻ってくるような陽性反応に逆戻りするかもしれないと思うような、ここ数日で可能性として感じるほどでした。

 病識がなかったころは、嫌な悪夢だと思っていたんですが、どうやら統合失調的には幻覚に当たる状態だったらしいです。

 

 一段落がついたので、ご報告までにブログに書きました。

 一番初めに生まれてきた子どもとしては、きちんと義務を果たせたと思っています。

私の「臓器提供意思表示カード」には家族署名がない

私の「臓器提供意思表示カード」には家族署名がない

 私が「臓器提供意思表示カード」を自分の意思で財布の中に入れて持ち歩くようになったのは、平成11年6月10日です。
 当時、脳死問題が世間的にニュースになり、あちらこちらのコンビニで当然のように置かれるようになった時代です。
 私は私の意思として、「臓器提供意思表示カード」を手にしました。
 きちんとニュースを見て、脳死とはどんなものか理解した上で、脳死判定が出た段階で、すべての臓器の提供をすることに決めたのです。
 もちろん、心臓が停止した状態でも、提供できる臓器があるのならば、かまわないと思いました。
 だから、本人署名を自筆で入れました。
 消えないように油性のボールペンで。


 このブログを読んでいる方なら、ご存じのように、私は『統合失調症』であり、年単位で通院をして、未だに2週間に1度は精神科に通い、主治医の先生と話をして、薬を処方されています。
 等級こそ低いものの手帳を持ち、自立支援も受けています。
 精神安定剤を飲み続けても、日常生活を送れないほど、酷い精神状態になることもあります。
 当然、断薬などできるはずもなく献血ができない体なのです。


 欠損なく産んでもらえたのですから、もし私が死んだら、臓器を提供したいと思っています。
 それで、誰かの命が救えたり、誰かが健康的に生活ができるようになったら、素晴らしいと思っているからです。
 ちゃんと生まれてきて、今まで生きてきて、最期まで誰かの役に立てるのなら、後悔のない人生だと思っているからです。


 ですが、未だに私の「臓器提供意思表示カード」には家族署名はありません。
 もちろん、「臓器提供意思表示カード」を持った時に、署名を両親に頼みました。
 特に母親が反対したのです。
 心肺停止状態になっても、臓器は提供できない、と。


 たとえ歪な家庭環境であろうと、両親は私を愛してくれているのだと思います。
 今で言うなら『機能不全家庭』の中で、私は育ちました。
 性的虐待以外のすべての虐待を受けました。精神的な虐待も肉体的な虐待もネグレクトも受けました。
 アルコール依存症であり、ギャンブル依存症であった父に育てられました。


 一番初めに生まれた子どもとして『いい子』であることを求められました。
 それこそ、保育園に通っていたころから。
 小学生に上がるころには、テストの点数を褒めてもらうことは一度もありませんでした。
 通信簿で良い成績を修めても、褒めてもらえませんでした。
 苦手教科である体育であっても平均をとっていても、満点でないことを注意されたのです。
 テストで80点以下の点を取った日には、理解力が足りていないと言われました。
 習ったことを覚えていないと復習させられました。
 漢字が書けなかったら十回、それでも足りないなら百回。
 テストが100点満点になるまで、何度でも、書き取りや小テストをさせられました。
 塾にも公文式にも通っていませんでした。
 当時、北辰テストがあり、詰込み授業が当たり前でした。
 一学年上で習う範囲を繰り下がりで、勉強させられていたのです。


 私という存在は、すでに異質であり、当然のごとくいじめにあいました。
 小学校から高校時代まで一環として、いじめを受け続けました。
 今考えれば当たり前なのですが、塾に通いもせずに、優秀な成績を修めて、校則からはみ出さない模範的な優等生だったわけですから。
 先生の受けが良かったのですから、妬みの対象にもなるでしょう。
 クラスメイトの前で愚痴を言ったことはありませんでした。


 そして、母親の教育方針として、他人を陥れるようなことを口にすべきではない、と教えられたのです。
 困った人がいれば助け、優しく接するように、と。
 シングルマザーの家庭の子や、心身障碍者のいる家庭で育った子や、病気を患っていてなかなか登校できない子にも親切にすることを求められたのです。
 それが当たり前だと思っていたので、私はそういった子たちも仲良くしようと努力しました。
 もちろん、そういった子たちは、すでに重度のストレスを抱えていました。
 他人を試すようなことをする、疑心暗鬼な子も少なくありませんでした。
 私は、その子たちからも妬まれ、いじめられました。
 手ひどい裏切りをされることもありました。
 いじめられている子を庇い、いじめの標的になることもありました。


 中学を卒業する前。
 進路指導の際に、両親から言われたのは「私立高校を通わせるだけの学費はない」ということでした。
 高校受験が当たり前の時代です。
 滑り止めの私立の願書代すら無駄だと言われたのです。
 県内の公立一本に絞りました。
 いじめから逃れたかったのと、今の学力と内申点で絶対に落ちない、という理由で底辺高を選択しました。
 電車で通わなければならないほどの遠方の学校でした。


 そして、全日制の共学の公立校に進学することができました。
 授業で椅子に座っているだけでも。
 宿題をとして出された課題を提出するだけでも。
 優秀な生徒として扱われました。


 図書室は静かな避難場所でした。
 もちろん通学時間が長いので、本を好きなだけ借りれるのは魅力的でした。
 私の家庭では教科書以外の本を買い与えてくれるほど、裕福ではなかったのですから。
 図書室が開けば、本を返却して、本を借りました。
 休み時間には読み、昼休みには返却して、帰り道用に本を借りました。
 司書教諭の先生も優しく、哲学や心理学や宗教や古典文学といった本やライトノベルや漫画も入荷してくれました。
 図書室の常連になるような先輩や同級生にも、可愛がってもらえました。
 底辺高でわざわざ本を借りに来るように常連の生徒です。
 読書が好き、なら、本を買えばいいだけです。
 大なり小なり、異質な存在だったわけです。


 そして『いい子』であるために、勉強に励みました。
 内申点を上げるために、いじめにあっていたとしても、学校には通い続けました。
 皆勤賞をとるために、毎日、学校に通ったのです。
 母の希望通り、教職の資格がとれる四年制大学を第一志望にしました。
 そのために公立の高校に入学したのですから。
 それこそ小学校に上がったころから、ずっと言われていたのです。
 国語の成績が優秀だから、将来は国語の先生になりなさい、と。
 推薦を勝ち取るだけの内申点が必要でした。
 国語系の成績は、偏差値だけなら早稲田大学も余裕で突破できる成績でした。
 三年間、学年一位を譲ったことはありませんでした。
 叩きこまれた教育というものは素晴らしく、小テストであっても、90点以上をおさめていました。
 高校の期末テストであっても満点をとることもありました。
 小学生時代から、読書感想文で受賞するのも珍しくなかったです。
 どうすれば先生から受けがいいのか、理解していたからです。


 唯一の道楽に三年生という受験に重要な時期に『美術』の単位を選びました。 
 おそらく、最後の自らが描く絵だとわかっていたからです。
 実際、油彩ができる最後のチャンスでした。
 学校から提供される画材を惜しみなく使うことができ、好きなだけ絵を描いていられました。


 苦手教科ももちろんありました。
 ですが予備校に通うお金なんてない家庭です。
 推薦が落ちた時に、あるいは大学に通うことになって、常識として身につけていなければならない最低限の理解力がなければなりません。
 同情心のあふれる先生を選び、中学時代からつまづいてところから、放課後の空き教室や教科ごとの準備室や職員室で丁寧に教えてもらいました。
 底辺高からの進学です。
 授業だけではカバーできない範囲も多かったです。
 親切な先生たちは、テストの点が伸びる度に、理解力が深まる度に、褒めてくれました。
 たとえ初歩的なことにつまづいていても、質問を重ねれば、根気よく説明をくりかえしてくれました。
 わからないものをわからないままにしておくことはいけない。
 それを教えてくれたのです。
 おかげで私の学力は飛躍的に上がりました。
 苦手教科であっても、成績優秀者の常連になるほどの成績になったのです。
 私が努力したから、だと先生たちは言ってくれました。
 初めて、私を他者が褒めてくれたのです。
 先生たちはお祝いに、絶対に私のお金では購入できないような副教材や大学に行っても通じるような本をプレゼントしてくれました。
 生まれて初めて、優しくしてもらえたのです。
 私は生徒という立場を使って、先生たちを利用しただけなのに。


 推薦入試を受けるために、小論文や面接の練習も進路指導の先生に頼みました。
 天声人語は基本でしたが、新聞なんてものを買う余裕のある家庭ではなかったのは先生も知っていたので、わざわざ用意をしてくれました。
 ニュースは多角的に知るために、複数の新聞に目を通すことを勧められました。
 面接の先生は、手の空いている先生に片っ端から依頼しました。
 どんな質問にも答えられるようにするためです。
 先生方の方も理解があり、快く引き受けてくれました。


 そして、私は奨学金を無事に受けることでき、四年制大学へ進学することができました。
 本当は家庭環境を考えると、中学卒業後に専門学校に行くことや就職することも考えていました。
 あるいは高校も、普通科ではなく、資格が取得できる場所でも良かったのです。
 卒業後、進学せずに、内申点の良さを利用して、安定した職業に就くことも考えていました。
 ですが、母親の望みは『国語の教師』でした。
 私は期待に裏切れずに、大学に入学して、教職に必要な単位数を計算して、講義を受けました。
 教職なんて狭き門です。
 時代は就職氷河期です。
 しかも潰しがきくような資格ではありません。
 ストレートで採用されるなんて一握りです。
 だいぶ時代は変遷してきて、一度は社会に出て、それなりに実績を積んでから、あるいは非常勤として勤めてから、採用される時代です。


 大学の図書館というのはたいそう魅力的でした。
 今まで読んだことのない本がたくさんありました。
 初等教育の基本は性善説。とは知っていましたが、すでに荀子韓非子にふれていたのです。
 心理学の本は当然読み漁っていましたし、それよりも高度な本が並んでいました。
 そして、国語科の必須科目で最終的にゼミナールに入る教授と出会いました。
 一年生の終わりに出した論文の評価はS。
 最高点をつけてもらいました。
 その教授の話は面白く、その道の第一人者だと知りました。
 きっとこの教授のゼミナールに入れば、私の抱えている孤独を解いてくれるのではないのか、そう思うほどの教授でした。
 優しく、親身になってくれる教授でした。
 飢餓を覚えるほど愛情に飢えていた私にとっては、素晴らしい人でした。


 大学での卒論は『日本人の死生観』でした。


 私は、ずっと死に場所を探していたのです。
 幼い頃からずっと、ずっと。
 楽園に憧れていたのです。


 知識としてリストカットアームカットをしても死ねないことはわかっていました。
 どれだけ睡眠薬を飲んでも、吐き気の方が強く、輸入でもしない限り死ねないのも知っていました。
 比較的入手しやすい農薬などの化合物は、どれもが苦しみが待っていて、速やかな死を運んでくれないことも知っていました。
 山で死んだり、電車に飛び込めば、遺族に高額なお金がかかることも知っていました。
 それに母親の期待を裏切れないほどの『いい子』だったのです。


 海を見たことがないのに、海に還りたかったのです。
 ようやく答えが出たんです。
 それは竜宮城であり、ニライカナイであり、補陀落信仰でした。
 きっとDNAに刻み込まれているとしか思えないほど執着でした。
 海から生まれたものは、海に還る。


 上代海上他界説なんて資料の少ない時代です。
 当然のことながら、各地の神話や民話、宗教にふれました。
 柳田國男に始めて、折口信夫も読みました。
 民俗学にほとんど近い学問でした。
 前例はほとんどありません。
 新鮮な切り口なんてありません。
 拾い上げくれた教授が第一人者だったのですから。


 そして、教授は私の論文を読むことなく儚くなりました。
 年齢的に考えれば、老衰です。
 葬式に参列したゼミナールの生徒だけではなく、かつての教え子や遺族も、悼みながらも、天国に行ったのだと信じて疑わないほど、穏やかな眠るような死でした。


 私の中で何かが崩れ落ちていきました。
 それが引き金だったのでしょう。
 私は、わかりやすい形で発病したのです。
 『統合失調症』に。
 幻覚が見えるのも、幻聴を聞くのも、睡眠障害を抱えるのも、当たり前になりました。
 理解者なんていませんでした。
 むしろ当時の精神科の先生との相性は最悪でした。
 今ほど画期的な薬がなかったのと、当時は『自律神経失調症』、『抑うつ』、などが病名だったのですから。
 むしろ詐病であることすら疑われました。


 その中で、私にとっての転機が現れました。
 20代の私が、いきなり大きな子どもの子育てをすることになったのです。
 友人と呼んでいいのかわかりませんが、親しい人物が未成年だというのに年の離れた妹を引き取ったのです。
 私以上に過酷な家庭環境に育った姉妹でした。
 しかも姉の方は知識として知っているはずなのに、自分が置かれている立場を理解していなかったのです。
 妹の方は完全に病んでいました。
 私は『代償行為』なのだろうと理解しながら、姉妹に手を伸ばしました。
 行政に掛け合い、前例のないことを無理やり押し通し、家庭的な環境を与えて、できることから褒めていきました。
 信頼関係を築くために、できることをしました。
 そして、二人は無事に社会に出て、手に職をつけて、働いています。
 もちろん修正不可能な個性は残りつつも、楽しそうに生きています。


 私にとって貴重な経験でした。
 こんなこともなければ、子育てなんて経験できなかったでしょうから。
 疑似的とはいえ、家族が手に入ったのです。
 私の病気は一生ものです。
 その欠落を埋めてくれるだけのパートナーが現れるとは思えません。
 年齢的にも出産は難しいでしょう。
 それに私が私の親にしたように、きちんと愛せるかわかりません。
 苦労はありました。
 一番、楽しい時代と呼ばれる青春期を血縁でもない相手のために時間も金銭も削ったのですから。
 それでも、無事に離れていった姉妹は、家族でした。
 彼女たちとたまに食事をする時、近況を聞くのは楽しいです。


 それでも罪悪感があるのは、両親に血の繋がった孫を抱かせることができないことでしょうか。
 一番、多感な時期に傍にいてくれなかったことを恨んだこともありました。
 ですが、薬を服用しながら、陽性反応から陰性反応に緩やかに転移していったこともあり、心も大人になりました。
 ああ、この人たちも苦労したのだ、と。
 ようやく親離れできたのです。
 遅すぎた反抗期が終わったのです、
 両親は不器用ながらも、愛してくれていたのだ、と理解できるほどには大人になりました。
 それが私の「臓器提供意思表示カード」には家族署名がない理由です。


 そして、また私も両親を愛しているのです。
 いまだに揃える程度にしか切らない髪。
 保育園時代に母が語ったんです。
 娘ができたら三つ編みにするのが夢だった、と。
 ピアスも開けていません。
 通常の出産が難しい病弱な母が帝王切開までして産んでくれた体です。
 その後もアレルギーを出し、散々、手を焼かせました。
 おやつはすべて手作りでした。
 ハンバーグやカレーやおかゆ、キャベツの煮びたしは、全部、母の味です。
 調味料も一緒です。
 父が好きだった母の作った甘い卵焼きも一緒です。
 あそこまで完璧な卵焼きはできませんが、私の作る卵焼きは砂糖が入ります。
 具だくさんの味噌汁も、夏の時期になると作る麦茶も一緒です。


 こんなことを書いた理由は、両親との連絡が取れなくなったためです。
 携帯電話も繋がらないし、手紙も受取人不明で帰ってきました。
 実家に帰って、確かめるのも怖いです。
 家の中で死んでいたのなら、速やかに連絡が来るとは思いますが、それがないとなると。
 もし、これが永訣だというのならば、ちゃんと産んでくれて、育ててくれてありがとうって伝えたかったです。
 確かに傍から見たら不幸な家庭かもしれません。
 それでも、私は愛されて、私は愛しているのです。


 一人暮らしを始める前に、母からの供養方法は聞いています。
 墓参りなんて大変だろうから、共有墓地に入れてほしい。
 そうすれば一人ぼっちじゃないし、毎日、住職さんがお経をあげてくれる、と。
 きっと父も、父方の墓に入るのは嫌でしょう。
 第一、父方の墓は教えてもらっていないのですから。


 私は最後まで『いい子』として、一番初めの子として喪主を務めたいと思います。
 期待を裏切ってしまった私の最期の親孝行です。

お久しぶりです

お久しぶりです

 年単位でブログを書いていなかったんですが、とりあえずは生きています。
 あいかわらず月2回の通院を続けています。
 通院先も変わっていません。
 歩いていける範囲の清潔感のあるクリニック*1です。
 投薬治療なのも変わりがありません。
 前回から、だいぶ時間が経ったので、飲んでいる薬の方は変わりました。

現在、飲んでいる薬について

昼夜に飲む薬



就寝前に飲む薬

  • サイレース錠 2ミリグラム 1錠
  • ラツーダ錠 40ミリグラム 1錠
  • アネキトン錠 1ミリグラム 2錠
  • ファモチンⅮ錠 20ミリグラム 1錠



頓服薬

補足

 お察しの通り、アルコールが飲めないのは変わりがないのですが、グレープフルーツ類もダメになりました。
 一応、主治医の先生に相談したところ、あまりに気にしなくても大丈夫とは言われてはいるのですが、なんとなく飲料水などの成分表をチェックする癖がつきました。
 ネットで検索して、柑橘類が薬の効果を妨げるという論文にぶち当たってしまったので、安定した睡眠を取るために、香料で我慢しています。
 比較的、柑橘類の飲料水は香料だけのものが多く、ストレスを溜めることなく、どうにかやり過ごせるようになりました。


 頓服でロキソニン錠が出ている理由は、どうやら寒暖差アレルギー*2を抱えているらしく、なおかつ気圧の変化*3にも弱いので、雨が降ったり、台風が接近したりすると、自律神経が乱れて、発熱や頭痛が出るためです。

睡眠と日常生活について

 就寝はだいぶ安定してきていて、日付が変わるか、日付が変わった直後には眠っています。
 ただ雷雨とかの刺激があると、入眠してから90分程度に覚醒してしまうこともありますが、適度な室温と適度な暗がりと適度な睡眠導入用の音楽*4のおかげで、また眠りがやってきます。
 起床用のアラームが鳴るまでノンストップで寝ていることも増えてきました。
 だいたい5時間から6時間は寝ているようです。

副作用

 睡眠安定剤の副作用として、昼間から夕方にかけて、寝落ちることが増えてきました。
 そのまま意識を失うように寝てしまうので、眠くなってきたら、仮眠をとるように気をつけるようになりました。
 時期的に熱中症が怖いので、コップ一杯の水*5を飲んでから、エアコンの温度を調節して、電気を消して、落ち着く音楽をかけてから、布団にもぐるようにしています。
 精神的に疲労していると3時間ぐらい寝ちゃうのですが、通常なら1時間ぐらいから2時間で起きます。
 早い時は30分ぐらいで、すっきりと覚醒します。

日常生活

 昼間の活動時間も伸びてきて、読書ができるようになりました。
 といっても長い話はまだ読めないので、文庫本一冊とかコミックス三冊とか程度ですが。
 できるだけ明るい感じの本を読み返している感じですね。
 久しぶりに持ち歩けるサイズの古語辞典と気になっていたコミックス*6を購入しました。


 創作活動もできるようになりました。
 一時期、文字入力もできないぐらいうつ状態だったんですが、どうにか自分らしく表現できるようになりました。

*1:保険がきく、精神科、心療内科を抱える、病院です

*2:耳鼻咽喉科で調べてもらいました

*3:気象病、というのですね

*4:YouTubeで広告なしのヒーリング系の音楽を流しっぱなしで眠っています

*5:麦茶のこともあります

*6:電子書籍版しかないと思っていたんですが、紙媒体でもあったので新刊で3冊ゲットしました

明けましておめでとうございます

朝・昼・晩
レバミピド錠100mg「サワイ」 3錠


昼・夕
リボトリール錠 1mg 2錠
酸化マグネシウム錠 500mg「ヨシダ」 2錠


就寝前 
サイレース錠 2mg 1錠
ジプレキサザイディス錠 10mg 1錠
ジプレキサザイディス錠 5mg  1錠
フィコンパ錠 4mg 1錠
アキネトン錠 1mg 2錠

 前回と同じ処方です。


 眠れなくて午前中に診察を受けに行きました。
 到着したのは11時頃でしょうか。
 待合室には誰もいませんでした。
 昼夜逆転していることを伝えました。
 あと、睡眠が持続しないことも。


 お昼ご飯はサイゼリヤでした。
 ラム肉は欠品しているようです。
 本当に人気なんですね。

朝・昼・晩
レバミピド錠100mg「サワイ」 3錠


昼・夕
リボトリール錠 1mg 2錠
酸化マグネシウム錠 500mg「ヨシダ」 2錠


就寝前 
サイレース錠 2mg 1錠
ジプレキサザイディス錠 10mg 1錠
ジプレキサザイディス錠 5mg  1錠
フィコンパ錠 4mg 1錠
アキネトン錠 1mg 2錠

 先週と同じ処方です。


 今年最後の通院をしてきました。
 風邪が治ったと思ったんですが、また新しい風邪を拾ってきたようです。
 発熱はないので、悪化しないことを祈っています。
 日記はこんな時間に書いていますが、病院に行ったのは昨日の15時です。
 投稿時間をいじるのが面倒なので、このまま書いています。


 待合室はガラガラで一人もいませんでした。
 比較的あったかくて、雨も降っていないのに珍しいです。


 薬は2週間分、処方されました。
 というか法律上、2週間以上出せない薬ばかりなんですよね。
 年明け、松の内に通院が決定しました。
 薬は足りているので*1半日ぐらい大丈夫なんですが、睡眠薬の方が足りなくなるので土曜日の午前中に通院です。
 薬局さんも1月4日は開いているらしいので、頑張って午前中に起きたいと思います。


 それではよいお年を。

*1:飲み忘れ以外にもアルコールと同時摂取できなくて飲めなかった分

朝・昼・晩
レバミピド錠100mg「サワイ」 3錠


昼・夕
リボトリール錠 1mg 2錠
酸化マグネシウム錠 500mg「ヨシダ」 2錠


就寝前 
サイレース錠 2mg 1錠
ジプレキサザイディス錠 10mg 1錠
ジプレキサザイディス錠 5mg  1錠
フィコンパ錠 4mg 1錠
アキネトン錠 1mg 2錠

 先週と同じ処方です。


 待合室は空いていたのでラッキーだと思ったんですが、初診の方でした。
 しかも精神科に通わなくてもいいような人だったらしい。
 長々と待たされました。
 風邪もまだ治っていないので、どっと疲れました。

朝・昼・晩
リン酸コデイン錠 5mg 12錠
カルボシステイン錠 500mg「サワイ」 3錠



ジスロマック錠 250mg 6錠
ビオフェルミンR錠 2錠



 鼻水と空咳が続くので、病院に行って来ました。
 抗生剤が強めになったようです。
 1週間分、薬を出してもらったので、おとなしく薬を飲んでいようと思いました。

朝・昼・晩
フスコデ配合錠 9錠
カルボシステイン錠 500mg「サワイ」 3錠


朝・夕
クラリス錠200 200mg 2錠



ムコソルバンL錠 45mg 2錠
ビオフェルミンR錠 2錠



 抗生剤をきちんと飲んでいたんですが、咳が収まらず、微熱が出ていたので病院に行ってきました。
 前回は5日分だったんですが、今回は10日間分処方されました。
 喉の薬から、咳の薬に変わりました。
 声枯れしていたんですが、市販薬とマスクのおかげで、かすれる程度になりました。
 薬が変わってから、痰が出なくなったんですが、どうなんでしょう。
 治り始めたということでしょうか。

朝・昼・晩
レバミピド錠100mg「サワイ」 3錠


昼・夕
リボトリール錠 1mg 2錠
酸化マグネシウム錠 500mg「ヨシダ」 2錠


就寝前 
サイレース錠 2mg 1錠
ジプレキサザイディス錠 10mg 1錠
ジプレキサザイディス錠 5mg  1錠
フィコンパ錠 4mg 1錠
アキネトン錠 1mg 2錠

 先週と同じ処方です。


 ゲーム起動しなきゃ。と15時のアラームで起きました。
 日付を見て、カレンダーを見て、ついでにPCも見て。
 今日が通院日だということに気がつきました。
 二度寝しなくて良かったです。
 風邪薬を飲んでいるせいか、寝ている時間が長いです。
 しかも、ぐっすりと眠れて、すっきりとした目覚めです。


 今日は最高気温も一桁で雨が降っているので、病院は空いていました。
 症状を伝えたかったんですが声がれしていて上手に伝えられませんでした。
 一応マスクをしていったので、喉が潤ったのか、嗄れ声でしたが発声できて良かったです。
 この3日間声がれがひどく、市販の喉飴をなめているんですが、ささやくような声しか出なくて不便です。
 長期戦にならないといいのですが。

朝・昼・晩
トラネキサム酸錠 250mg 3錠
カルボシステイン錠 500mg「サワイ」 3錠
メジコン錠 15mg 6錠



ジェニナック錠 200mg 2錠



 免疫が低下していたところに風邪を移されました。
 市販薬を飲んでいたのですが、38℃の熱が出たので耳鼻咽喉科に行ってきました。
 予約は取れませんでしたが、平日の昼間ということで待ち時間は1時間もなかったです。
 熱が高いのでインフルエンザの検査をすることに。
 結果は陰性でしたが隔離されました。
 ここのところ喉の風邪をひくこともなく、熱が出ても微熱で市販薬と睡眠で治っていたのですが。
 抗生剤を出してもらったので、まあ真面目に薬を飲んでいれば治るでしょう。

朝・昼・晩
レバミピド錠100mg「サワイ」 3錠


昼・夕
リボトリール錠 1mg 2錠
酸化マグネシウム錠 500mg「ヨシダ」 2錠


就寝前 
サイレース錠 2mg 1錠
ジプレキサザイディス錠 10mg 1錠
ジプレキサザイディス錠 5mg  1錠
フィコンパ錠 4mg 1錠
アキネトン錠 1mg 2錠

 先週と同じ処方です。


 今日は工事の音で目を覚まし、その後、うつらうつらしていました。
 午前中に病院に行くこともできたのですが、布団にくるまっていました。


 ここ数日、うつがひどくて、最低限のことしかできませんでした。
 食事もとっているのですが、新聞紙を食べているみたいな味がします。
 「生きる」ということに、少し疲れているのかもしれません。
 希死願望が高まっているのかもしれません。
 急に寒くなってきましたし、季節の変わり目は心にも負担をかけるということは知っています。
 だから、周りに心配をかけたくなくて、このブログに綴っています。


 慰めが欲しいわけじゃありません。
 同情が欲しいわけじゃありません。
 ただ、今こんな状態なんだということをネットの海に放り投げておきたいのです。
 誰かに知ってほしいのかもしれません。
 誰にも知られたくないのかもしれません。


 このブログは備忘録です。
 私がここにいたという証明をするための日記です。
 だから、今日も死なずにいた自分を褒めておこうと思います。

朝・昼・晩
レバミピド錠100mg「サワイ」 3錠


昼・夕
リボトリール錠 1mg 2錠
酸化マグネシウム錠 500mg「ヨシダ」 2錠


就寝前 
サイレース錠 2mg 1錠
ジプレキサザイディス錠 10mg 1錠
ジプレキサザイディス錠 5mg  1錠
フィコンパ錠 4mg 1錠
アキネトン錠 1mg 2錠

 先週と同じ処方です。


 明日は一日、雨という予報が出ていたので前倒しで病院に行ってきました。
 どうにか座る場所があるぐらいの混雑でした。
 1時間ぐらいは待ったでしょうか。
 診察時間は5分程度。
 昼間に動くように言われました。
 やっぱり疲れるぐらい動かないと質の良い睡眠はとれない、というのが論拠のようです。
 まあ、薬で無理矢理、寝るのは健康的ではないですね。
 今の薬の問題点は、睡眠が持続しないことですね。
 3時間置きぐらいに目が覚める。
 寝れるだけマシですが。


 イベントでマニキュアを塗りたいから、爪を伸ばしているのですが、すでに切りたい欲求が。
 キーボードを打つ時に引っかかるんです。
 打鍵感にはこだわりがあって、メカニカルの青軸を使っているのですが、相性が悪いです。
 ネイルが綺麗な人には、マジで尊敬します。
 ほとんど化粧もしないし、散髪は揃えるぐらいで現状維持という状況なので、身ぎれいにしている人は凄いなと思います。